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劉観慶 1988年留学生 東京造形大学校友会賛助会員
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 25年前のことだが、その時もう47才だった1人の中国人が無錫軽工業学院から東京造形大学へ留学して来た。名前は劉観慶という、複雑な漢字だ。もちろんサインするとき時間がかかる。

 当時は中日両国の関係が友好だった。日本の経済が一番発達し、中国は改革開放の政策を実行していて、日本の家電製品が中国へ輸出され初め、日本企業も中国に工場を建て始めていた。文化、教育の領域にも交流が徐々に進行している。1986年には東京造形大学学長豊ロ協教授をはじめとする代表団と無錫軽工業学院院長華静娟教授をはじめとする代表団が互訪のもとで、姉妹校締結のはこびになった。このチャンスに私は東京造形大学ではじめての中国人研修員になった。
私は1988年4月下旬に日本へ到着した。残念ながら桜の花はもう散ってしまっていたが、当時造形大学は高尾山麓にあって、森の中の静かな場所だった。私は毎日西八王子の吉田町の寮から西八王子駅で電車に乗って、高尾駅で降り、駅前からバスで山道を登って学校へ行く。遲れそうなら学生たち何人かと一qにタクシーで行く。

 私の專門はもともと文学だ。南京大学に勤めると同時に美術を独学して、1973年に無錫軽工業学院へ転勤した。水墨画を教えながら、陶磁器デザインなども教えた。80年代初期になると中国の工業デザイン教育はどんどん発展してくる。私はデザインの発展のために、44才から日本語を勉強して日本に渡った。
私の研修分野は工業デザインおよびデザインマネージメントだ。指導先生は魚住双全教授、和爾祥隆ア授、星野隆三教授などだ。

 当時、中国と日本のデザイン教育のレベルは20年以上の差があった。私の目でみればすべてが新鮮だった。私はいろいろな科目を研修して、若い学生たちと同じような課題作品を制作した。基礎科目では、魚住先生の「造形A」と薄晴彦先生の「造形B」があった。「造形A」は、硬い木材で抽象的な彫刻をつくる。私は二つの作品を制作した、その中に「フクロウ」の彫刻がすこし面白い。その時には、皆川正先生のお宅に伺い、先生の魚の彫刻作品を鑑賞しながら、いろいろお教えいただいた。「造型B」は数理造形だ。二次元と三次元の構成の課題がたくさん出された。星野先生の「曲面デザイン」はちょと難しい、紙面の図面だけじゃなく、立体モデルと粘土の模型も作らなければならない。私は掃除機をデザインして図面を書きクレーモデルを作った。遠藤勇先生の「表現技法」はマーカなど道具で製品の立体図を表現する。毎週宿題がある、休みの日も利用しなければならない。遠藤勇先生は学校へ来られる時かならず望遠鏡を持ってくる、授業の合間に学校周辺の木の上の鳥を観察する。それから木で鳥の彫刻作品をつくる。目的は鳥類保護のために博物館などの動物標本にするのだ。

 理論科目は和爾先生の「デザイン概論」がある。和爾先生はデザインの歴史を分析しながら、なぜ手工業デザインから工業デザインになるかを解明して下さった。日本語のレベルが低いので、隣席の学生のノートを読みながら理解する。和爾先生には研究室でもいろいろなことを教えていただいた。そのうち議論するテーマはだんだん広くなってきて、私のデザイン思想の形成に強い影響があった。石橋康道先生の授業は「真善美」のデザイン思想だ。ちょっと古い感じもあったが、デザインの真言だった。

 興味のある科目は豊口学長と益田文和先生の授業「製品意味論」だ。製品の形の意味を機能的な意味から文化的な意味へ拡大するのだ。当然、日本の学生の作品は日本的な意味を強調する。私は製品デザインの上に中国文化を表現したい。一生懸命に考えて、いろいろな形を描いて、最後に中国の伝統的な音楽物語「高山流水」をテーマとしてCDプレーヤのデザインを完成した。魚住先生の指導によってモデルも制作した。学長から「ユーニクなデザイン」との評価をいただいてうれしかった。私は帰国して後、無錫で製品意味論の授業を始めて中国全国へと拡大した。

 主な科目は魚住先生の「機噐デザイン」と星野先生の「デザインマネージメント」だ。三年生の授業だ。ある時は別々に授業し、ある時は協同して授業する。社会発展の状況を調査分析してこれからの製品デザインを提案するのが主な内容だった。授業の空気はとても活発だ。私は年齡を忘れて、若者と同じように議論し、作品をつくった。ある時は日立デザインセンターの研究テーマと繋がり、いろいろな作品を発表した。それも後の無錫の主な教学方法になっている。

 夏休み、三日間で一つの作品を作成した海本健教授の工芸科目も面白かった。東芝デザインセンターと大阪工場へ一週間の見学旅行もした。企業のデザイン現場の様子がわかる。そして、星野先生に連れられて京都、奈良へ見物に行った。日本文化をよく調べる。寺、神社、庭園などを見物しながら、中国文化とのつながりも考える。ちょぅど奈良でシルクロード博を開催していて、日本、中国、ヨーロッパのあいだの文化交流の経緯が一目了然だった。また、私の水墨画「山小屋」は「第一回日本の自然を描く展」に入選した、上野の森美術舘に展示した。

 留学する意味は、知識の面だけでなく、人間性の面もとても重要だ。すなわち人間が互いに理解することは人間関係と生活にとっての基本だ。私は東京造形大学に入って、年齡的には、私と先生たちとは同じようだから、時間がたつと、だんだん友達になる感じがある。授業のほかに、先生方の生活にも非常に関心を持つようになった。学長先生たちと一緒に横浜へ行って中華料理を食べたり、和爾先生と一緒に鎌倉へ大仏を観に行ったり、魚住先生と一緒に東急ハンズとかいろいろな店へ買物に行ったり、星野先生や薄晴彦先生のお宅でご飯をいただいたりした。竹内勲雄総務部長、事務室の鳥羽政雄さんなど、みなさんにも、住居、食事、交通、買い物、様々な手続きなど、大変お世話になった。暇があれば、中国の事情を話したり、日本の情况を聞いたり、交流が深まるとともに、私の日本語のレベルもだんだん上達して行った。若い学生たち、たとえば飯田君などとも友達になり、一qに勉強したり、買い物に行ったり、お茶を飲みながら冗談を言っては楽しんだ。
 1988年年末に私は帰国した。留学時間は8カ月と短かかったが、豊かでしかも楽しい時間だった。

 お陰さまで、造形大学で得たいろいろな知識と能力を利用して、私は中国でデザイン教育と社会活動両方面に大きく貢献することができた。長いこと江南大学(元無錫軽工業学院)設計学院の教授であり、その間、大学院生の指導教官や、工業設計系(インダストリアルデザイン学科)の主任を務めた。同時に中国工業設計協会理事、江蘇省工業設計学会副理事長を務めている。十三年間に無錫国際デザイン博を企画して地方経濟の発展を助成している。学問のほうは論文、著作がいくつかある。特に6年間にわたった工業デザイン資料集10巻の主編は大仕事であった。日本語の本も二册翻訳して出版した。

 私は留学の恩返しとして、中日デザイン交流の発展のために努力をしている。両国のデザイン協会の何回かの相互訪問と交流を促成した。私自身6回にわたって日本を訪れている。東京造形大学の先生たちにもいろいろな機会に中国を訪問していただくことができた。魚住先生と一qに敦煌を訪問した時は、帰りに列車で蘭州から無錫まで三日間かかった。その後、魚住先生は病気になって亡くなったが、非常に懐かしい。和爾先生も何回か中国を訪問され、西北工業大学で講義して名誉教授になられた。西安の古い文化も見学して、なん種類もの餃子を食った。殘念なのは星野先生と益田先生が無錫以外にお連れしていないことだ。

 私は退年してからまた中国計量学院、蘇州大学の教授を何年間か務めている。同時にむかしのスケッチを整理して「老速写」という本を出版した。得意とする水墨画も再び始め、いろいろな作品を創作して、蘇州、無錫で「劉観慶中国画展」を開催した。

 今も、またいつか懐かしい東京造形大学を訪問してみたいと思っている。

劉観慶略歴
江南大学デザイン学院教授


<劉観慶>

1941.4江蘇省江陰市生まれ
1960.7南京大学職員、独学で美術を学ぶ
1973.6無錫軽工業学院(現・江南大学)の造形美?系講師、学科副主任
1988.4日本 東京造形大学に留学、工業デザインを研修
1989.1無錫軽工業学院で助教授、教授、工業デザイン系主任
2004.5退職
2004 ~20 06中国計量学院工業デザイン系主任、教授
2006 - 2011蘇州大学応用技術学院芸術系主任、教授







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